第一話 炊飯ジャーの向こうは不思議の世界でした後編


巨大な高層ビル二つの間に挟まれた、鬱蒼とした雑木林。青々と繁った枝に隠れるようにそのこじんまりとした洋館はあった。煉瓦造りの赤茶色の壁は緑の蔦で覆われていて、全体的に薄汚れている。四角と半円を合わせたような形の窓の何枚かは石でも投げつけられたのか、或いは永い年月の為せる技か、完全に割れて穴が空いている。観音開きの木の扉は、黒ずんで瑕だらけだった。これで雷鳴轟く曇りの日であれば何かもう色々と完璧になる。そんな魔法使いでも住んでいそうな古い舘には、やはり魔法使いが住んでいるのであった。
その魔法使いは本や菓子袋などでとっ散らかった部屋の真ん中に胡座をかき、白いワイシャツにスラックス、ブレザーを腰巻きがわりにした凡そ魔法使いらしからぬ格好でカップ麺を啜っていた。そのどーみても普通の男子高校生にしか見えない魔法使いが着いている背の低い硝子のテーブルの上には、先が二つに分かれた尻尾と赤い瞳を持つ小さな黒猫が座っていた。黒猫は暫く黙って少年の食事の様子を見ていたが、やがて口を開いた。そして怪しからんことに喋った。
「おい、お前ばっかり食ってないで俺にも寄越せ。」
魔法使いはそれに驚く様子もなく、ただぞろぞろと脂っぽい麺を喉に流し込んでいた。存在を無視された黒猫は再び口を開く。
「シカトしてんじゃねーよ。使い魔が飢え死にしてもいいのかよ。」
しつこい黒猫を少年魔法使いは眼鏡越しでも鋭くぎろりと睨み付ける。
「やかましいアホ猫、腹が減ったなら自分で何か捕ってこい。俺にはお前を世話する義務も義理もない。」
魔法使いの冷酷な言い方に、黒猫はキレた。
「何だと?!十六年とちょっとしか生きてない若僧が、偉そうに言うな!大体この家は元々俺の物だったんだぞ!」
「そして俺がお前を負かして奪って、お情けでお前を側に置いている。懲りてないらしいな?…もう一回勝負してやってもいいぞ。次は命の保証はしかねるがな。」
竜星はスープしか残っていない容器を置いて、危険な笑みを浮かべた。黒猫は毛を逆立てた。
「上等だごらあ!今度こそ確実にお前の喉噛みきってやる!!」
立ち上る煙と共に戦闘体勢を取る黒猫に対して、魔法使いはすうっと左手を翳した。
ラーメンから始まった住みか争奪戦はすぐに中断された。当然の事だ、天井の半分が大きな音と共に落ちてきたら誰だってそうする。魔法使いは慌てて飛び退き、黒猫は一瞬前まで殺そうとしていた魔法使いの後ろに隠れた。何百年分かも解らない茶色い埃がもうもうと立ち込める。
「げほっ!ごほっ!」
黒猫が大袈裟に咳をする。魔法使いは茶色い世界の中、すっと埃を切るように指を動かした。モーセが海を渡った時のように埃の煙はあっさり晴れ、阿鼻叫喚の地獄絵図が明らかになった。砕け散った木の骨格。崩れた煉瓦。無残に床に落ちて割れたシャンデリアに倒れて積み重なっている黒檀の本棚。山になった元・家具と建築材の頂点には、二人の女が目を回して倒れていた。魔法使いは二人の女の傍に寄る。埃にまみれてはいたが、二人のうち一人は看護師で、もう一人は紺のセーラー服の少女であることが辛うじてわかった。
「し、死んでるのか…?」
黒猫が恐る恐る聞く。しかし魔法使いは看護師の顔を確認すると、脈を測ることすらせずに廃材の中に埋めようとした。突如、看護師の腕が伸びてきて魔法使いの胸ぐらを掴む。琴音は地獄の使者のような声でゆっくり言った。
「助けろよ…」
「…生きてたんですか。」
魔法使いは悪びれもせず両手を挙げた。

「ん…」
鈴音は回りの騒音に目を覚ます。あれ、私…くらくらする頭を抑え、きょろきょろと辺りを見回す。鈴音は見知らぬ部屋にいた。シンプルなシャンデリアに大小様々な本が並んだ古い本棚、本棚と同じ黒くて硬そうなベッドと青い絨毯、昭和レトロとでも言うのかあまり見慣れないデザインの書斎風の部屋であった。そして自分は頭から爪の先まで埃だらけの汚い格好で床に横たえられていた。そうだ、私…目の前の映像と気を失う前の記憶が繋がる。すぐ近くのテーブルには、母親と知らない男の子が座っていた。炊飯ジャーに吸い込まれて、空高い所から落ちて…鈴音の双ぼうから涙が溢れ出す。私、生きてる。ちゃんと動いて、息してる。鈴音は薄汚れた袖でこっそり涙を拭き取ると、呑気に少年と談笑している母親を睨み付けた。娘を死ぬよーな目に合わせといて何の説明もなしか、このとんちきばばあ。
「あ、起きた。」
眼鏡の少年が鈴音に気付いて言った。琴音は鈴音の方を向くと、何でもない様子で言った。
「おはよう。こっち来て座りなさい。」
鈴音は怒りでまた涙が出てきたが、知らない人の前であるから母親に従った。

琴音が話し出した。
「こちらが、お母さんの弟子の神崎竜星君。竜星、これが私の娘、鈴音よ。」
竜星と呼ばれた端整な顔の少年は、ぶっきらぼうに会釈した。弟子なんて言う少年漫画と角界以外じゃ死語化しているワードに戸惑いつつも鈴音も会釈を返す。鈴音は頭を下げた状態で髪に隠れて竜星を覗き見る。しっかし、見れば見るほど綺麗な人だ。ぬばたまの黒い髪、上物の陶器みたいに白い肌。通った真っ直ぐな鼻筋に琥珀に近い色の切れ長の目。プラス眼鏡っ子。まさに生ける芸術品のように完・全・無欠であった。鈴音がついつい我を忘れて見とれていると、竜星は鬱陶しそうに見返してきた。
「何だ。」
鈴音はさっと目を逸らす。怖い。性格は悪い。
「あーっと。」
琴音は場を取り成すように話し出した。
「竜星、お客さんが来たらお茶を出す。番茶で結構。」
どうせそれくらいしか家に無いでしょ、と付け加える琴音に、竜星は嫌そうな顔をする。
「んーなのご自分で…」
渋る竜星を琴音は鈴音を親指で指しながら意味ありげに見た。
「説明の意味も兼ねてよ。この娘は魔法を見たことがない。」
竜星はああ、頷いて、左手を軽く挙げる。
「魔法って…」
鈴音の疑問はすぐに解決された。土の色を生かした安そうな急須と痔と書かれた白い湯飲みが三つ、鈴音の前に飛んできた。急須は既にほかほかと湯気を上げ、竜星の助けも借りずに黄緑色の液体を湯飲みに注ぎだした。鈴音はそれなりに香ばしい香りと鮮やかな色の湯が湯飲みを満たしていくのを黙って見ながら、色々と考えを巡らしていた。
ええーと、これは質の悪い手品じゃないんだよね、ピアノ線なんかも無さそうだし。でも現実では急須が勝手にお茶を注ぐなんて有り得ない。でも有り得ないと言ったらさっき自分がトラックをひっくり返したことも有り得ない。するとこれは…彼は…私は…
半分発狂しそうな鈴音に止めを刺したのは例の黒猫だった。赤い目のそいつは鈴音の膝にぴょんと飛び乗り、鈴音を見上げて無邪気に言った。
「おっ、可愛いお客さん。」
鈴音の目の前が真っ白になった。
ぎゃああああ猫が喋ったああ…
鈴音が自分の叫び声を聞きながら果てた。

鈴音が再び目を覚ました時、窓の外は真っ暗になっていた。対照的に部屋の中はシャンデリアが昼より明るく照らしていた。ああ魔法使いの家にも白熱灯があるんだな、と鈴音は間抜けな事を思った。鈴音が身体を起こすと待ってましたとばかりに冷たい言葉の応酬が鈴音を襲った。
「全くやかましい女だな。」
「猫(ひと)の顔見てぶっ倒れるなんて失敬な。」
「そうよ猫股くらいで。そんなんで驚いてたら心臓がいくつあっても足りないわよ。」
確かに恥ずかしかったけどそんな言い方ないじゃん。鈴音はテーブルを支えにして正座する。しかもお茶、残ってないし。
テーブルに三人が着いたところで琴音は話を再開する。
「信じられないだろうけど竜星は見ての通り、魔法使いよ。それもかなり腕の良いね。竜星を教えた私は魔女なの。それも凄く腕の良かった、ね。そしてその娘であるあんたもまごうことなき魔女よ。だからトラックをひっくり返せたし、ボールの軌道を変えられたし、ゴミに出されたウサちゃんを取り戻す事が出来たの。わかった?」
鈴音は頷いた。まだかなり混乱しているが、そうするしかないだろう。序でに母の言った『腕の良かった』が過去形であるのが微妙に気になったが、質問する気にはなれなかった。余計な事を聞いてこんがらがりたくない。今のところ落ち着いている鈴音に、今度は竜星が説明する。
「そしてお前が来たこの世界は、魔法やこの猫股ホーリーナイトのような妖魔が存在する世界。まあ所謂魔界だ。」
「一時期あんたが小さいとき、あんたを伯母さんちに預けて居なくなってた時があったでしょ。その時私はこっちで竜星を教えてたってわけ。」
「はあ…」
鈴音は生返事をする。そんな急にファンタジーな事をぽんぽん言われても、付いていける訳がない。母さんはそれを理解していない。この竜星とかいう男の子もその辺の配慮がない。しかし。これで疑問に思っていた色々なことが繋がったのも確かだ。まあ、それが納得出来るかどうかは別として。鈴音は頭痛がするのを堪えて初めて質問する。これだけは聞かなければならないことだからだ。
「それじゃお母さん、なんで私をその…こっちの世界に連れてきたわけ?」
琴音はやや困ったように竜星と顔を見合わせたが、きちんと答えた。
「今日は沢山な事があったけど、こっちにきたそもそものきっかけを覚えているかしら。あの黒装束のオカルト集団。あんたはああいう奴等に追われているの。あいつらだけじゃない。もっと怖い組織が、あんたを狙っている…かもしれない。だからこっちの世界にいる、我が弟子竜星君に保護を求めてやってきたと言う事よ。」
「俺はそんなの全然知りませんでしたけどね。」
竜星が口を挟む。鈴音は竜星を無視して、新しい質問をする。
「なんで私が狙われてるの?」
こんなごくふつーの女の子狙ったって、何も良いことない。悔しいけど可愛くもないし色っぽいわけでもないし。ついさっき魔法が使えることがわかったけど、それだけならそこにいる二人だって狙われる要因に成りうるのだ。琴音はすっかり冷めた不味いお茶を一口啜った。
「あんたは、私達と違って特別な魔法が使える可能性がある。普通の魔法の域を越えた、強い魔法をね。それを狙って不埒な輩があんたを手に入れようと争いあい潰しあい。まさに傾城の美女。素敵でしょ。」
琴音は楽しそうに言った。
「…あんた適当なこと思い付いたままに言ってない?」
仮にも娘が狙われてるというのにこのふざけっぷり。元々現実離れした話なのにますます信じがたくなってしまう。ただ母の話は全て、多分、真実なのだろう。母は元来、私に対して嘘をつかない性質だ。少なくとも旨いもの絡みでなければ…鈴音はため息をついて俯いた。沈黙が訪れる。
「ということで竜星、娘をよろしく。」
琴音は沈黙を破って気楽に言った。
「…は?」
鈴音と竜星はハモってしまった。
「琴音先生、よろしくって」
嫌な予感をひしひし感じながら竜星が訊く。琴音は事も無げに答えた。
「言葉通りよ?あんたにうちの鈴音を預けるから、しっかり守ってあげてね、と言うことよ。」
「えええ!」
竜星もそうだがもっと吃驚したのは鈴音の方だった。
「お、お母さん、それって私がここに住むということ…」
動揺しまくる鈴音に母はしれっと言った。
「そういうこと。まあ安心してよ、魔法と妖魔以外は向こうの世界と大差ないから。学校も手配してある。竜星と同じ学校よ。あんたの荷物も後々送るしね。」
「何勝手に…」
「そうよお母さん、こんな、…」
鈴音は赤くなって口ごもる。私だって年頃の女の子なのに、いきなりよく知りもしない男の子と同居なんて。竜星も同じことを思ったのか、のんびりとだが抗議した。
「冗談じゃねえ、寝言は寝て言えくそばばあ、です。うちにそんな余裕ありません。」
「あんたね、語尾にですますつけりゃあ何言っても許されると思ってんじゃないわよ。良いじゃないの、こんな可愛い娘が家事一切は勿論膝枕なりマッサージなりしてくれんのよ。男のろまんでしょ。」
「あんた自分の娘を何だと…」
母のあまりの言い様に戦慄する鈴音。竜星は澄まして言った。
「生憎とロリイタ貧乳は好みじゃないんで。膝枕して貰うならもっとこう、メリハリのあるタイプじゃないと。というわけで他当たってください。」
な、何を。鈴音の頭に血が上る。これはいくらなんでも酷すぎる。後ろで母がそういうことじゃないのよとかあんたにしか頼めないのよとか説得に説得を重ねていたが鈴音は聞いていなかった。初対面だろうがイケメンだろうが構うものか。
「会ったばかりのあんたに何でこんなこと言われなきゃならないのよ!失礼だと思わない?」
竜星は鈴音をじーっと見てから鈴音の肩に手を置いた。
「事実だもんなあ。無いものをあると言い張るのはいつかボロがでるし第一お前が情けないだろう。まあそんなに悲観するな、誰しもコンプレックスの一つや二つは…」
鈴音は竜星に皆まで言わせなかった。竜星の石膏細工の如く整った顔に鉄拳を食らわせる。鈴音の指の関節がゴキャッと竜星の頬にめりこむ。
「だから誰がそれをコンプレックスだと言ったこのセクハラ魔導士が!」
折角気にしないように生きてきたのに!
女性からなら多分母親にも殴られたことなど無さそうな竜星をホーリーが面白そうに笑う。
「ラブコメみたいだなっ、竜星。」
「仲良くするのは素敵なことなのよ。」
琴音がホーリーに笑いかける。鈴音は叫んだ。
「あーもうどいつもこいつもっ!!」

第2話へ続く!!

inserted by FC2 system